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人生は苦難に満ちているかもしれない。

しかし、人生とは美しいものである。

どんな生きざまであれ人とは美しい。

人間は美である。創造はすばらしい。

感謝。

*活動の目的*

 

私の活動の目的は皆が自己を実現し、心の平安を得る事です。
その平安の集積が平和へとつながってゆけば、これほど嬉しい事はありません。
世界全人類を救えるとは思っていませんが、若かりし頃はそれを

本気で実現しなければ。と、思っていました。
振り返れば、物心つかないころから神秘的なものにひかれ、

10代から30代まで、導かれるようにインドやチベットに行き、

そこでの経験を積み重ねていきました。
それは、当然普通の日本人の10代の少年が歩む道とはかけ離れていました。
マスターたちから教えを学び、瞑想修行を黙々と行い、

物乞いや、宿無しという経験もしましたし、

襲撃等に遭い、命の危険にさらされるということも何度か経験しました。
そんな崖っぷちな人生の経験の中、私の目の前には常に自己を実現する事。

そして、この人生で自分に与えられたミッションを遂行する事。

という目標が掲げられていました。
そして、私なりにその目標の半分は実現されました。
まだ、今もなお私は導かれるままに動いていますが、

私からすれば、この親からもらった”和平”という名前は、

私の”生”の形であり、私の人生の全てを表現できる名前であると日々実感しています。

*教えの内容*

 

私たち人間は自我意識を主体として普段生活していますが、

この自我意識が多くの場合苦しみを引き起こしてしまう事になるので、

過去様々な宗教ではこれら自我の撲滅を図って修行をおこなってきました。
ところが、この自我を撲滅すると言う事は並の努力で成し遂げる事はできません。
もちろん、どの道でも自我の撲滅と神性意識を育てると言う事は

両翼のように実践されてきていますが、

入門者はどうしても、この自我との戦いから逃れる事ができず、

ついには修行そのものを諦めてしまうと言う事もしばしばです。
しかし、自我と戦わずとも、神性意識を育てて行く事は可能です。

神性意識が私たちの中で育ってくれば、たとえ自我はそのままでも

平安な状態に留まる事ができるようになるのです。
私は、以下に示す方法によって、自我とかかわらずとも

神性意識を開花させる方法を指導しています。

1》マーヤ。。。

 

マーヤとは、サンスクリット語で(幻)を意味する言葉で、

基本的にはこの世界自体を表現する言葉です。
インドの哲学では、実在をブラフマンやアートマンと言う言葉で表します。
この、ブラフマンやアートマンと言うのは

日本語で表現すると神。と言う事になりますが、

神と表現するのは、多少乱暴な表現のような気もします。
実は、もっと細かいニュアンスがそこには含まれているからです。
この、ブラフマンやアートマンが真実在であるのに対し、マーヤとはこの世界の事。
確かに存在はしているけれども、実体がない。と言う考えです。
さらに、無知(アヴィデヤー)や慣習的思考(ヴァーサナ)などと言う言葉も

インドには存在していますが、私は単純にこれら一切をひっくるめて

マーヤと言う言葉で表現しています。
どちらかと言うと、正当な使い方ではなく、むしろ和平語的な使い方です。
簡単に一つ例を挙げると、

「私たちは世間的な慣習的思考によって、ないし、他人の考えによって

自分自身を評価してしまう事で、本来的な自分を見損なっている。」
これだけではなく、この他にも沢山のマーヤのケースがあるので

一言では説明できないのですが、Q&Aコーナーも開設する予定ですので、

そこで様々なマーヤのバリエーションを紹介する事となるでしょう。
いずれにしても、私たちの苦しみの原因は、これらのマーヤなのです。
マーヤをよりよく理解し、それを取り除いていく事で

確実に人はとらわれから自由になる事ができるのです。

2》明知。。。

 

明知は、無知に対する言葉です。
瞑想やマーヤの考察を行う事でこの明知が生じてきます。
そして、この明知を通して自分や世界を見渡した時に、

それのうちに内包された答えを得る事ができます。
まさに、修行とはこの明知を発達させるプロセスであると言っても過言ではありません。

3》みこころ。。。

 

みこころを説明するのは難しい事です。
私は、私があたえられた『ギフト』によって、これらマーヤ、明知、みこころを理解しました。
これらは私自身の経験と直感智によるものなので、

やはり皆さんにも感覚的に理解してもらうより他に道は無いと思います。
ただ、私は、多くの日本人が歩む道から大きく逸れた人生を10代の時から送ってきました。
そして、この人生で、多くの奇跡的ともいえる人々との出会いというものを経験してきました。
これらの人との出会いが私を成り立たせ、生かしてくれている訳であり、

その中のどの人が欠けても私はこの私ではないと言うのが私の答えです。
そして、その出会いは常にドラマチックであり、

背後にシナリオが存在しているのをありありと感じる事ができます。
まさに、『人は出会うべく人と出会い、出会いによって人は導かれてゆく。』

と、いったところでしょうか。
これらの不可思議なる出会いが、予定されていなかったと考える事の方が私には困難なのです。
このみこころと言う言葉は、

私にとってはある意味で究極的な答えであり、私の人生の答えでした。

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